「傷のなめ合い」って言葉がありますよね。
辞書に載っている意味としては
『「似たような失敗や不幸、差別の経験をした者同士が、
互いを擁護し合うだけで先へ前進しようとしない状況」に対し、軽蔑の意味を込めて表した言葉』(Wikipedia)
つまり、悪い意味で使われるのが正しいようですが、
それをちょっとおいといて「傷をなめ合う」という語源的な意味から考えると、
私は傷のなめ合い賛成派でして。
経験の少ない子供の時と比べ、
経験を積んでいろんなことが頭でわかるようになり、
良くも悪くもそれなりのプライドを持つようになり、
周りもみんな仕事や家庭などで忙しくなってくると、
なかなか悩みや自分の心の弱さを
他人に見せづらくなってきますよね。
経験を積むと確かに、ストレスを回避するのがうまくなったり
解消の仕方がわかってきたり、
悩む期間が短くなったりするものですが、
だからといって悩みが完全になくなるわけではないし、
いくら頭でわかっていても、
つらいことはつらいし、落ち込むことは誰でもあると思います。
しかも経験を積んで賢くなってる分、
ダメな自分を自覚してしまって
余計に落ち込んだり…
「ああ、こんなことで落ち込んでいる自分はなんて
ダメなんだ、
情けないんだ、
こんな自分の弱さを人に見せることなんて到底できない」
「こんなことを言ったらどうせこういう風に言われるだけだ」
「みんな仕事や家庭で大変なのに
こんな相談できない」
その結果、人に悩みを相談できず、
自分だけで抱え込んでしまう…という人が多いのではないかと思います。
うつや自殺が多いのも
そういうところに原因があるのではないか、と。
そんなとき、必要な作業こそ、
(言葉の語源的意味での)「傷のなめ合い」
ある人の身に起こっている悩みは
結局はその人にしか解決できません。
解決の仕方も人それぞれです。
しかし、解決するためには
それだけのパワーが要ります。
でも弱ってる時は、それを自分で解決するだけのパワーがない。
そのパワーを充電する作業が必要なんです。
それはもちろん趣味に没頭するとか
気晴らしをするとか
そういうことでなしえることもありますけど、
一番は、誰かに悩みを打ち明け、
一度自分の心を空っぽにして、
代わりに、誰かに共感してもらったり、
ダメで落ち込んでる自分をそれでも
褒めてくれたり、愛してくれたり、
そういうあったかい気持ちで満たすことじゃないかと
思うわけです。
つまり、ブルーな気持ちで埋め尽くされていた心を
ピンクな気持ちに入れ替えるのです。
私はもともと(今でも結構そう思われてますけど)とてもきつい性格で、
説教的に話してしまうくせがあるし、
正論で人を圧倒してしまうところがありました。
だけど、自分が落ち込んでる時、
「誰か」にしてほしいのは
「正しいアドバイス」や「こうすべきっていう答え」を
言ってもらうことじゃないって気付いたんです。
そういうことをされるとむしろ
傷ついた心をさらに蹴られたような気持ちになり、
立ち上がれなくなる、苦笑。
そうではなくて。
ただそばにいてもらうことや
話をじっと聞いてもらうこと。
私がダメなことを言ってても
否定せず、批判せず、
とりあえず共感してもらうこと。
だって人間みんな完璧じゃない。
ダメな部分を絶対持ってる。
それを自覚する人とそうでない人はいるかもしれないけれど。
自分のそういう部分を自覚し、ちゃんと受け入れた経験のある人なら
他人のそういう部分に共感し、
相手をひとまず受け入れることが
できると思う。
もちろん、その時自分に余裕があれば、だけど。
私はそういう人でありたい、と思うわけです。
このブログのタイトルにあるように、
心の中に「毒」や「弱い心」が宿ることは自然なことで、
それを吐き出す作業というのは
人間にとって絶対に必要な作業だから。
他人のそれを受け入れられる人でありたい。
その作業ができれば、
その人はまたその人自身の力で
悩みを乗り越えていけるはずですから。
これ、セラピストとして、や、鍼灸師としてのスタンスと一緒なんですよね。
こういうことに気付いたのはやっぱり教師生活してた時かなぁ…
せっかちな私ですが、
「その子自身が気付くのを待つ」
というスタンスをたくさん学んだ気がします。
またまただらだら長文すみません。
短くまとめるセンスがほしい…
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