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香川県高松市の HARI salon & studio MOISA の院長のブログです。タイトル通り、毒を吐くことも結構あるかも…?
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昨日学研教室の四国ブロック研修会に参加してきました。

私がいつも学研教室でいいな、と思うのは、
「学習塾」でありながら、教科指導以上に「人間的な教育」「子どもの成長」を
大切にしているところです。

今回のことばキャンプの主催者である高取しづか先生の講演も
本当によかった。

実は先週高松事務局内で5分間くらい自分の思いをお話させていただいたんですが、
先生が目指されているのはまさに私が目指すもので、
試行錯誤しながらなかなかうまくいかない私に
より具体的なトレーニング方法をたくさん教えてくださるものになりました。

先生のHPちらっとのぞかせていただきましたが、
タイトル
「幸せになれる子」に育てたいあなたへ

ことばキャンプのサブタイトル
21世紀を自立して生き抜ける子に

私が求めているのはまさにこれなのです。
それは、先生自身がアメリカでの生活やご家族との経験で感じられたように、
私自身、今までの経験で心底感じてきたからなのです。


ちょっと長く、そしてもしかしたら重くなりますが、
私の話を踏まえて書かせていただきます。



----

二十歳の頃、私は自分のことが大嫌いだった。

県内一番の進学校に通い、
クラスでは常に学級委員長、部活では部長、
親や先生や周りからの信用も厚い、
勉強もそんなにガリガリしなくても国立のそれなりの大学に合格。



履歴書だけ見れば、「優れた」大学生だった。
でも、どんなに周りから信頼されても、一番大切な、自分からの信頼は得られなかった。



いろんなことに自信過剰でありながら、
一方ではものすごく自信がなくて、そんな自分が嫌いだったのだ。


今から考えると、要するに、自尊心が育ってなかったのだ。
(そういう自覚をするのも、自分がダメ人間であることを認めることになるような気がして、

結構時間がかかったけれど。)



高校までは常に周りが課題を与えてくれていたので、
それに対してがんばり続けることで充実した生活が送れていた。
与えられた課題を自分なりにうまくこなすことはすごく得意だったので
周りからも悪い評価を受けることなんてなく、
友達とも普通に楽しくやっていた。
(ひねくれてるところは多少あったけれど。)


 


それが、大学生になって自由度が増し、
忙しい運動部ではなくゆるーい文化部で誰も私に注目しなくなった結果、
突然自分のことが大嫌いになってしまったのだ。
なんでそんな風になってしまったのかよくわからないけれど、
とにかく自分より友達を優先する彼氏にイライラし、
周りの同級生たちがなんにも考えていないバカな子どもに見えて、
大学時代はほとんど友達付き合いをせず、いつも一人で行動していたし、
うまく笑えなくなっていた



今思うと、それまで当たり前に受けてきていた他人からの評価を失ってしまい、
何にがんばったらいいのか、どこで自分を評価してもらったらいいのかわからず、
自分に自信を持つことができなくなってしまったのだと思う。



 

 

そのときになって初めて、自分は今まで
すべて人から敷かれたレールの中でしか力を発揮できない人間だったことに気づいた。


自分で選択してきた、努力してきた、そう思ってきたけれど、
大人や周りが期待することを先に感じ取って、
それをなるべく高いレベルでこなしていい評価を受けてきた陰で、
子供の自分が本当にしたいことや逆に本当はしたくないこと、
人を嫌いになることや周りに迷惑をかけるかどうかなんて関係なく感じる素直な気持ちを
ないがしろにしてきたのだ
、ということになんとなく気づいたのだ。








誰かから与えられた「正解の用意された課題」について
常に高いレベルで解答を出すことを繰り返してきた結果、
例えば人と話していても無意識に相手と張り合い、
自分が上に立てるよう隙のない解答を用意しようとしてしまう。


私が求められてきたのはイエスかノーか、より高い点数や、
周りの人がすごい、よくできる子だね、と喜ぶことだったから、
相手と自分の間に上か下かしかないのだ。





だから私が一生懸命しゃべると周りの人は口を挟みづらくなるらしい。
そしてこれは今でも変わらない(笑)


blogやSNSなどにもコメントがほとんどつかない。
「自己完結してるよね」と指摘してくれた友達がいた。
なるほど、と思った。
自分のいい部分も悪い部分も受け入れて開き直った今なら
ま、それが私だし、しゃあないわ、で済むけれど、
自尊感情が低く、人から評価されることでしか自分を認められない状態においは
孤独と自己嫌悪、そして周囲への妬みばかり生まれてしまう


周りに評価されるような立派な人間になろうとがんばってきたのに、
どうして誰も私を認めてくれないの?
私は誰からも好かれていない。私もこんな自分大嫌い。
なのに私より勉強もできなくて努力もしてない人間がどうして私より好かれてて幸せそうなの?




こういう気持ちがもっとひどくなり、マイナスの気持ちが自分に向くと
うつ病や自傷行為につながり、
外に向くと他人を傷つける行為や反社会的な行動につながるんだと思う。
そこまでわかりやすい行動になる人は少なくても、
同じような精神状態にある人、ぎりぎりの人は
世の中きっと少なからずいると思うし、もしかしたら
誰もが一度はそういう経験をするのかもしれない、
自覚するしないは別として。




高校生まで私はずっと自分を「優れた」「いい子」だと思っていたと思う。
というか、そういう風に生きることが当たり前だと思っていた。


でも、自分が「優れた」人間だと思う裏には必ず他人をバカにする発想が生まれる




努力すればできることをしてないバカ


こんなこともできないダメ人間

自分がいろいろできてきたお母さん、
家のことや仕事をきっちりこなすお母さんが
いろいろできない子どもにイライラしてしまうのも
同じ発想です。




そして、他人に厳しくすることでますます自分の首を絞めていく





やればできるんだからやんなきゃだめ。


やらないと私は自分が嫌悪するバカなダメ人間になってしまう。
あいつみたいに。


あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、もっと完璧に。




人に優しくする余裕なんてない。


特に自分より努力してない人間に。


だって、バカで努力もしてない人になんで優しくしなきゃいけないの?


甘やかしたらもっとダメ人間になっちゃうじゃない。


誰に強く迫られたわけでもないけれど、
自然と自分はいい子でいないといけないと、
自分の中に「モラルリスト」のようなものがあって、
そうできない自分を認められない自分がいた。


だから答えのない課題をこなすこと、例えば美術の授業などはとても苦手だった。


自分に才能がないのもわかっていたので最初から勝負したくなかった。


 


ただ点をとっていくスポーツも苦手だった。自分のミスで点が取れず、
負けるのが恐くて、練習でできることが試合ではできなかった。





世の中にもっと多様な価値観があるとか、
求められる結果を出すかどうかだけじゃなく、
ただシンプルに、回りの人をなんとなく笑顔にするとか、
楽しい気分にするとか、勉強や仕事ができなくてもやさしいとか、
そういうことが理解できなかった、というか認められなかった。
認めたら今まで自分ががんばってきたことは全部否定されてしまうから。




世の中の多様なよさを受け入れ、他人に優しくなれたのは30近くなってからだと思う。






点を取るスポーツは苦手だったけれど
ダンスにはひかれた。
芸術的センスはなかったけど身体表現は好きだったんだと思う。


努力すればちょっとずつできるようになるのも楽しかったし、
体で心を表現することは気持ちよかった。


採点はされるけれど一つのものさしではなく、
もともと主観の入る採点なので随分と気が楽だった。


最終的には好きか嫌いか、で、正しいか正しくないか、の勝ち負けではなかったから。
自分が好きな分野で、しかもある程度の自由度が許されるダンスは
私にとっては「他人からどう見られるか」以上に
「自分が心から欲するもの」だったんだと思う。

ダンスや対自然、それも海に癒してもらえるサーフィン、
自分の体や心と向き合うヨガ…そういういろんな趣味と
それを通じて出会った、
「勉強や仕事ができるかどうかとは全く違うところ」で付き合える仲間たちのおかげと、
自分の中のマイナス感情やダメな自分を否定せず、
人に評価されなくても嫌われてもおかしいと言われても
素直な感情を大切にするトレーニングをしてきたおかげで、
私は自分のことも人のことも愛すること、許すことができるようになった。





こういう経験を踏まえて子どもの教育を考えると。



自由度のない課題を与え、それに対する「出来映え」
=誰かの偏った価値観のなかでの競争を強いられてきた人間は
「優れた」人間であるにも関わらず、自尊心や幸福感とは程遠い人生を送ることになりかねない。



日本人の自尊感情が諸外国に比べ極端に低いのは
教育の犯した大罪だと思う。



   Q.私は価値のある人間だと思う(「全くそうだ」と答えた人の割合(高校生、2011年)  
     アメリカ  57.2%
     中国    42.2%
     韓国    20.2%  
     日本     7.5%


私は自分が味わってきた苦しみを子供たちに感じてほしくない。
そしてその苦しみを今も引きずってしまっている大人たちを
少しでも解放してあげたい。
そのために学研、もいさ、これらの仕事をしてる。




みんなちがってみんないい





みんな口ではそう言うけれど、
これを日本社会で育ってきた私たちが教育において本当に実行しようとするのは
はっきり言って至難の業だと思う。


わたし自身、こういう価値観を受け入れられなかった子供の自分を
ちょこっとずつ修正しながら、
他人にどう評価されるかではなく、
自分も他人も、幸せに生きるために、今の私にできることは何か、
必死で試行錯誤してる。





そんな今の私は、例えばSNSに100件もコメントのつく人を見ると素直にすごいなー、
この人のこの魅力はどこから生まれるんだろう、ととりあえず分析はしてみるものの、
自分のblogにコメントやいいねが全くつかなくても
ま、私ってそういう人だから、と流しつつ、またくじけずコメントしづらいblogを長々と書く(笑)


私には私のよさがあるし、数は少なくても支持してくれる人や
いいねしなくても心の中で何かを感じている人はいるはずだから。


それでいいんです。




あ、それでいいのだ、バカボン、深いなー。





私が今の幸せ、つまり自尊心と周りに惑わされず感謝できる生活を手にいれるのに
たくさん時間がかかって、たくさん苦労した。


それでも私は運よくこちら側に来られたけど、
30を過ぎても40を過ぎても、こちら側に来られず、
孤独や自己嫌悪感、他人への悪意とずっと闘っている人間をたくさん知っている。


それでもなんとか普通に日常生活を送れる人も多いけれど、そうできなかった人が
周りの人に自分の不幸や孤独の刃を向けて、さらなる不幸を産み出していることが多々ある。
そういう事件や場面を見ると本当に心が苦しく、いたたまれない。
だって、私もあのままいくとそうなっていたから。



だから、声を大にして言いたいのは、

教育を、子供を、全くのビジネスにしてはならない。


ただ自分に都合よくお金もうけしたいなら、せめて大人相手のビジネスでしてください。


教育は社会貢献にもなるけれど、大罪にもなりうるんです。
私みたいにしんどい思いをする大人を作り出す教育をえらそうに語って
お金もうけしないでください。






じゃあどういう教育がいいのか。


これ、大学の卒論のときにも、J先生に突っ込まれたなぁ。
自分の中には実感として答えがあるのだけど論文としては全然成り立ってなくて
悔しかったからいまだに覚えてる(笑)






私が目標とする教育は、

  • 同じ課題を与えても答えに自由度をもたせること

  • その子のペース、よさを大切にするシステムと雰囲気づくり

  • 何よりも課題の与え方や学習管理について、教師側の主導権をなるべく抑えていきながら生徒側の自律度を高めていくというバランスの移行


これらを備えたものだ。




つまり、先生という絶対的管理者が常に一つの解答のある課題を与え続け、
うるさく厳しく尻を叩いて正答を出させ、
より速く正しくたくさんの答えを出せたことにごほうびを与えて
新たなモチベーションとさせる、
日本が学校や塾で当たり前としてきた教育のあり方
とは正反対の教育だ。






いくら課題の点数がよくても、与えられた課題を一方的にこなしている以上、
子供に大きな人間的成長はない


自律した大人になるには、課題を自分で見つけて、
それも、正答が一つではない課題を自分で見つけて、
自分や周りが納得できる自分なりの答えを出さなければいけない。


どういう課題を見つけるか、どんな解決案を考えるか、どんな答えを出すか、
それらが「その人」を形作る。
彼の人生を幸せにも不幸にもする


学研教室の中にもいろんな先生がいるし、
多様な価値観を認めるという意味ではビジネス的なやり方も批判すべきではないのかもしれない。
また学研教室があくまでも公教育ではなく、「学習塾」である以上、
生徒数の少ない私より生徒数を増やしてロイヤリティーをたくさん上納する先生の方が
立場上えらいのかもしれない。
だけど、私はどうしても譲れない。
私たちが扱っているのは「物」じゃない。「大人」でもない。
「未来を生きていく子どもたち」だから。
お金よりも大切なものがあると思う。
勝ち負けや数字よりも大切なものがあると思う。
それらを大切にした上でついてくるお金、数字が
本当に価値のあるものだと思う。
そしてそれを実現させる可能性を持っているのが学研教室だと
信じてがんばりたいと思います。


また、とめどなく、長々と書いてしまいましたが…
これでいいのだ!w

拍手[10回]

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世間で大流行のタブレット学習。

学研にもiコースというのがありまして、
私も約1年前から様子見でやってはみたのですが、
このたび、時代に逆行して、笑、辞めることにしました。
理由は自分自身がそこまで活用できなかったこともあって
うちの子どもたちにそこまでの需要がなかったこと、
また通信教育・タブレット学習専門の会社が
これだけ派手なCMを打って内容的にも充実してる(かどうかは
実際使ってないのでわかりませんが)なか、
学研教室のものは正直言うとそこまで充実していなかった、
というのが正直なところです。
なのでうちに来てる子どもでも「○○ゼミもやってるー」っていう子、
います。
まあ、そんなにやって親も子供も大変やね、とは思いますが、
そうやってどっちも使い分けできているとしたら
全然アリだと思っています。



ただ、子供=未来を担う人間を育てる立場にいる者として
こういうものに頼りすぎる風潮には
ものすごく反発を感じます。

タブレット学習って確かにゲーム感覚で勉強ができるので
「楽しくできる」
「自分でできる」
「興味を持てる」
というようなきっかけづくりや繰り返し学習、
個人のペースに合わせた学習という意味では
すぐれていると思います。
ただ、それはあくまでも「どうせ覚えないといけないことを
ちょっと楽しく勉強する」というだけの話であって、
「教育」=「人を育てる」
というもののほんの一部であるにすぎません。
私の時代で言うと「受験(のためだけの)勉強」として大手進学塾や出版社が
「ゴロで覚える○○」やら
「カリスマ塾講師の実況中継」やらと変わらない。
私は子供時代、そういう「受験のためだけの勉強」を頑なに拒んで
塾に一切行かなかった人間なのですが、
なんでって、そんなことやって得た「知識」って
いったい何になるの?と子供の頃から疑問に思っていたからなんです。
確かに行きたい大学に受かりたいし、ちょっとでもいい大学に行きたいっていう
気持ちはわからないではないけれど、
じゃあ、みんなが東大行けば、幸せになれますか?
いい大学行った人だけがいい社会人、いい親になってますか?


ぜーーーーーーったい、そんなことない!


勉強ができること、いい大学に行くこと、はあくまでもその人の「一部」で、
その人にとっても周りの人にとってもそれがすべてじゃない。
だったら、そんなおかしな「受験勉強」を自分の学生時代のほかのいろんな楽しみを
犠牲にするくらい必死でやって「身の程以上の大学」に行くより、
自分の「今」を楽しみながらバランスよく勉強もほどほどにして
「身の程に合った大学」に行って自分らしく過ごした方が
よりその人の人間としての魅力をアップさせられると思うわけなんです。

そんなことを学生時代から頑なに考えていた私も変わり者だったんでしょうが、
そんな過ごし方をしてもそんなに苦労なく希望通りの進学ができた私は
確かに勉強はできました。
だけど、それで自分の今がすべてそのおかげで幸せかというと
まったくそんなことない。
ただ、塾に行かず、ゴロ合わせ本に頼らなかった代わりに、
自分で勉強の仕方を考えたり、情報のまとめ方を考えたり…
そうやって努力を積み重ねたことは
社会人になってからの仕事や退職後の資格試験の勉強にも役立ちました。

そしてそれ以上に勉強はマイペースでやりつつ、
自分が常に興味を持ったことにチャレンジしたり、
友達と部活や学校行事を楽しんだり、
そんな中で自分の心で感じ、頭で考え、体で動いてきたことが
今の自分の幸せにつながっていると思います。

ここで、子供の教育、タブレット学習に戻ります。

親は子供の学校の成績が悪かったり、自分の思うとおりに勉強したりしてくれなかったら
腹も立つし心配にもなると思いますが、
はっきり言って私たちの頃と今、そしてこれからの社会は全く違います。
私たちがおもに子供時代に必死で学んできた「知識」なんて、
今は指一本あればすぐにパソコンやスマホが導き出してくれますよ。
大人だってそうでしょ?
昔覚えてた漢字ですら、使わなかったら忘れる。
でもスマホ使えればすーぐ、ネット上で誰かが答え書いててくれるじゃないですか。


タブレット学習はそういう意味では知識を増やすための単なるゲームですよ。
しかもそれ、今ただ覚えたって数年後には忘れてる。
でも忘れたってその時またスマホで調べたら「答え」の出せるただの「情報」です。
そんな指一本で出てくる知識を頭に詰め込んで
「数字」を獲ることってそーーーんなに大切ですか?


これだけ情報のあふれかえった世の中で、
これから生きていく子どもたち(私たち大人もですが!)に求められる「本当の力」って何か。

それは、「人間関係力」と「情報活用力」です。
情報をたくさん知っている人が偉いんじゃない、
その情報をどう使うか、それを使ってどうやって自分や周りの人を幸せにするか、
その答えを自分なりに出せる人が、幸せな人間になれるんです。

埼玉で中学生が惨殺された事件や市議がFBで腹が立った中学生の画像を掲載した問題など
日々起こっている問題の多くは
「人との関わり方、コミュニティーの問題」

「あふれる情報、情報ツールを活用する側の問題」
これに尽きると本当に思います。
過去の大事件、オウムの事件なども、頭はいいけれども
人間関係や生き方で何か疑問を抱えていた人が
自分の頭で何が正しいか判断できない状況に陥り、
周りの抑止力が効かなかった結果、ああなってしまったわけですよね。


子どもだけじゃなく、私たち大人自身も含めて。
自分で答えを導き出す力と
よりいろんな価値観を与えてくれる人、
自分のことを本当に考えてくれる存在、コミュニティー
本当に大事です。


ただもちろん最低限の読み書き計算は必要だし、
脳がどんどん発達する子供時代に
脳を使うために勉強することそのものはとても重要なことです。
なので子供が勉強しなくていいという発想にはならないわけですが、
それにしても、脳の発達はただタブレットが言うことを一方的に受容したり、
一人で「できた、わーい」って喜んだりするだけでは
不十分なんですよね。
一斉学習でノートを取ったり、マンツーマンで一人の先生に
教えてもらったりするだけでも同じこと。




人は人の中でしか育てない。




周りの子どもや大人、なるべくいろんな人となんだかんだ言いあって
いろんな価値観に触れて、
時には傷つけ合うことがあっても心を刺激されて、
それに対してネット上には載ってない、自分なりの答えを頭で考えて、
体で表現して、
それでまた傷ついて考えて…
そうやって成長していくんです。頭も、心も、体も。


だから、例えば家にご家族がいつもいるとか、外で毎日めいっぱい友達と遊んでいるとか、
特別な運動をやっているとか。
そうやって心や体がすでに満たされている子供が
ほんのちょっと頭の部分を残された短い時間でプラスに持って行くために
タブレット学習や個別塾なんかを利用するのはすごい有効だと思いますが、
(それこそCMで起用されている本田圭佑や長谷部誠など)
家に親もいない、帰っても学校の延長でただ友達と黙ってテレビゲームしてる、
というように「学校」「家庭」というコミュニティーしか持たない子供、
しかもそれぞれが希薄だと余計ですが、
そういう子どもに「成績上げてほしいからタブレット学習、ばりばりの進学塾、個別塾、家庭教師」
っていうのは、どうかなーと思うわけです。
それでその子の今の成績は一時的に上がったとしても
人間として一体その子の何が「育つ」のかなと。
あ、「勉強って意外と楽しいやん」っていうきっかけにはなると思いますけどね。




短文でまとめるのが下手すぎてだらだら長引いてすみません。
が、大切なことをもう一度言います。




人は人の中でしか育てない。




だから私は学研教室を「成績を上げるための塾」にする気はない。
「家庭」「学校」以外の「第三の場」として
私-子どもだけでなく、子ども同士が関わり合うことで
「人間的に成長するのを見守る場所」だと思っています。
親や一度に30人相手にする学校の先生だといらいらしてできにくい
「気長に見守る」ということを、なるべくできるようにしたいと思っています。
そして算国の学習はあくまでもその一つの代表的なツールだと思っています。
本人の心が育てば、学習の結果は時間がかかっても必ずついてくると思うし、
万が一学習面では花開かなくても、その子にはちゃんと
ほかの武器が備わっているはずですから、
生きていくのには何の心配もありませんよ。
逆に勉強ができても心が育ってないな、と感じる子、
特に自尊心のない子供を見ると…本当に、本当に心配になります。
どうにかこうにか、自分にできることはないか、
考えていきたいと思います。
そんな思いで、H27年度も学研をやっていきます。


長すぎですね。
しかもまとまりない…
そういう力は、私の今までの人生では育ってきませんでした…残念。

拍手[4回]

もうすぐ1つの学年が終わる時期だからなのか、
長く続く寒さで心身がやられやすい時期だからなのか、
この時期は学研教室の子供、保護者ともにいろいろと気持ちの揺れることが
多いようで。

私の教室でも「辞めようか」「休もうか」「ほかの塾に変えようか」
と悩みを抱えている方が(私の気づいた範囲でも)何人かいらっしゃいました。

義務教育の小中学校と違って私が以前勤めていた高校や
今の学研教室はあくまでも子供・親が「望んでいく場所」であり、
こちらは「ビジネス」、
特に学研教室は「学歴に残る場」でもない、「週2回の学習塾」なので、
基本的にはあちらの希望で選択してもらって
こちらはそれを受け入れるだけ、というスタンスかなーと
思ってはいます。

ぶっちゃけ、「ビジネス」で考えると
学研教室の講師としての収入は1人あたり月約4000円。
うちでは子供によって1回30分~3時間くらいを月8回なので
時給換算すると…
いや、もう計算するのはやめよう(´д`|||)、という感じなわけで。

お金を中心に考えると、
あちらがそういう意向なら仕方ないか、
その分本業でがんばればいいや、
ってなっちゃうんですが、
そもそも、お金が一番大事なら
学研教室ももいさもとっくに辞めて
ほかで働いた方が100倍いいわけで。

もういいや、仕方ないか、と流れそうになる自分に
もう一度問いかけてみるんです。


私はなんのためにこの仕事をしてるのか。



子どもを育てる立場に立つ時に欠かせないのは、「大きな目」と「小さな目」
この二つだと思ってきました。


「大きな目」…この子が5年後、10年後に自立して笑顔で生きていくために
今必要なものは何か。


「小さな目」…私に見えている部分だけじゃない、今のこの子の生活トータルで
必要なものは何か。


例えば今、学校の成績は問題なく、親や先生から見て「いい子」であったとしても
その子が本当は解決すべき課題を隠し持っていて
それを先送りしているだけかもしれない。
今面倒をかけないからとそのままにしておくと
5年後、10年後にその子の生活から笑顔が消えているかもしれない。


逆に今、勉強ができず、親や先生の言うこともなかなか聞かなくて
「問題のある子」に見えていても
大人になればしっかり自分の道を切り拓くことができる人間に
育っているかもしれない。


学研教室は基本的に個人経営で料金が手ごろな分、
こちらが教材を準備したり一斉授業をしたり、という形式ではなく、
既存の教材から個人に合ったものを選んで
自力で解いて提出してもらう、というスタイルなので
みっちりマンツーマンで見てほしいとか
一斉授業型がいいという場合はほかへ行ってくださいというしか
ないかな、とは思っていますが、
自分の個人的な気持ちや経営のことを置いといて
一度この二つの目にきちんと戻って
その子のことを考えた時、
その子が抱えている本当の課題はなんなのか、
自分のできる範囲でもっといい付き合いの方法を提示できないか、
それらをどうやって探り合い、伝えていけばよいか…
考えることになるんです。


そうやっていろいろ考えていると
教員時代を思い出して、
「ああ、こうやって子供のことを考え過ぎて
体がやられちゃったんよなぁ…」
とまたまた心折れそうになるんですが、
やっぱりできるだけのことはしよう!と
自分なりに試行錯誤しています。
もちろん結果は実を結ぶときもあれば
そうならないときもありますが、
なるべく納得できるよう、やり切ってはいきたいなと
思っています。


あんまり子供のことを考えていると
常に葛藤もありますけどね。
自分たちは周りの大人にこんなに大事にされてきたかなぁ、
こういう風に(周りが気を遣ってくれることが当たり前)育っていったら
大人になったとき大丈夫かなぁ
もっと厳しくすべきかなぁ?
と。

昨日の西内まりやさんの情熱大陸を見たり、
今行ってるバレエ教室で先生がお子さんたちをしっかり厳しく指導してる姿を見たりすると、
「厳しい先生になかなか認められなくて必死でがんばった」
からこそ、強くたくましく、苦しくなりながらも向上心を持って
必死で努力して結果を出せる人間に成長するんだよなあと。
自分もそうだったし。
それに比べると自分は甘すぎて
結局子供のためになってないのかなあと。
でも時代の流れもありますし、
厳しくし過ぎて折れてしまってはそれこそなんにもならないし、
やはり、その子の環境トータルで見て、
ほかで厳しさを経験している子にはやさしさを。
厳しさが不足している子には厳しさを。
ま、そんなにすべてはうまくいかないんですけど。


だらだらと長くなってしまいましたが、
そんな気持ちで、でも基本は楽しく♪やっています。

拍手[3回]

夏休み中の開室時間について


 


 夏休み中(7/198/30)の学研教室ですが、人数調整とほかの習い事をされている方のことを考慮した結果、以下の時間も開室することにしました。
 ほかの習い事などで時間の都合がつかなかった方、再度ご検討ください!
 


 


   火曜 幼児   9:00~10:00


      小学生 10:00~12:00


   木曜 幼児   9:00~10:00


      小学生 10:00~12:00


 


注意


 ・基本的にほかの習い事をされている方を優先し、あとは人数等を考慮して調整します。


 ・週の前半、後半で各1回ずつが基本です。


 ・特別な予定のある週については決められた時間以外に来ていただいてもOKです(前もって連絡をお願いします)


 ・火曜-木曜の場合宿題は火曜に1日分、木曜に3日分お渡しします。



拍手[2回]

学研教室が終わっても私に時間の余裕があり、
子どもたちの気が向くと
遅くまでなんやかんや遊んでることがあります。

今日は子供たちが

「はりしてー」

「お灸したいー」

どうやら、なんかのマンガではりやお灸をしているのを
読んで興味を持ったらしいんですね。


私が子どもの頃にははりはこわかったし
お灸するなんて考えたこともなかったですが、
こうやって自然に、しかも好意的に鍼灸に興味を持ってくれるのは
うれしいなと思います。


「イライラするーーーっ」
って言いながら教室に来る子には
頭のてっぺんの【百会】にはりをうったり、
肝経の【曲泉】にお灸したり。


むくんでいてのどが弱い子には
腎経の【復溜】や肺経の【尺沢】にお灸をしたり。


お迎えに来たお母さんの目の疲れに【攅竹】にはりしたり。



「気持ちいいーー」

「熱くなってきた!」

「(自分でうって)痛いーーー」

「○○にはどこのツボが効くの?」


キャッキャッキャッキャとおおはしゃぎ。

母の日のプレゼントにお灸を買ってあげようかななんて
ステキな発言も。



日本ではほとんどが生まれた時から西洋医学ベースで
「何かあったら病院、薬」
という価値観が身につきがちですが、
東洋医学で
「何かにならないようにはりやお灸で予防する」
という発想を自然と身につけてくれたら、
とてもうれしいなと思います。

だって、何よりも大切なのは健康ですもの。
勉強ができることよりね。


「将来は薬剤師になりたい」

ほほう!それなら余計、東洋医学のことを知っておくと
いいはずだぜ!!
漢方もかなり注目されているし、
薬剤師+鍼灸マッサージ師とか、今後はすごく需要のある人材だと思います。

今ここではしゃいでいることが
いつかのそういうヒントになれば、ステキだなあ。。。

お父さん、お母さん、いかがですか?笑
薬剤師はとてもカタイお仕事だと思いますが、
それはあくまでも「現状」。
たとえば10年後はある程度飽和状態になっているかも。
そこに鍼灸・東洋医学がプラスされると、
とっても強いと思いますよ!!

というか、本当に人の役に立てる仕事だと思います。
自身や家族の健康にも本当にプラスだと。


子どもたちにはとにかく、勉強だけでなく、
トータルでいろんなことを学んでほしいです。
学研教室=ただの塾ではなく、
私という一人のちょっと変わった?大人と触れ合うことで
人生をちょっとだけ広げるきっかけの一つにしてほしい。

結局、一番大切なのは「出会い」だと思うのです。
自分の人生もそうですから。。。

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HARI salon & studio MOISA
性別:
女性
職業:
鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師
趣味:
食べる、波乗り、猫、クラブ、ヨガ、バレエ、ダンス、スポーツ観戦(プロレス、フィギュア、柔道)
自己紹介:
HARI salon & studio MOISA
香川県高松市桜町1-16-19
 080-1993-2113
 11:00~25:00
 (完全予約制、~17:00は要前日予約、電話受付は~23:00)
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