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香川県高松市の HARI salon & studio MOISA の院長のブログです。タイトル通り、毒を吐くことも結構あるかも…?
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出会いはちょうど1週間前の木曜日。
たまたま休みだったダンナといつものようにDAIKIでペットを見ていた。
外のケージに入っていた柴。
30000円の値札がついていた。

ダンナが近づくとはじめ、うーっとうなり、
その後おとなしく上目づかいになってペロペロしてきた。

そのいじらしい姿に、二人ともその子のことが忘れられなくなってしまった。
半分冗談で「明日連れに行くか」猫たちに「お前たちがこんなにくつろいでいられるのも
今日だけなんだよー」なんて。

次の日になってもまだ気になっていた。
なぜあんなに安いのかわからないけれど、値段的にも買えないことはない。
今まで動物をお金で買うことは絶対にしないと思ってきた私だったけれど、
これも「出会い」。
あの子が気になってしまったのだから、それはそれでありなのかも、と思ってしまった。


結局お互い気持ちが一致してまだおったら買おうか、という話になってしまった。


土曜日。
もちろんまだいたのだけど、あれ?
なんだかすごーーーく元気。
こないだのおとなしい、ちょっとかわいそうな感じは?

二人の心に疑問がよぎった。

「この子はなんでこんなに安いんですか?」

聞いてみると実際にはワクチン代やら保険代やら…合わせるとそれなりの額を
支払わなければならないことがわかった。

えーー、3万じゃないの?
またまた二人の心に疑問がよぎった。


でも結局。
日曜日に迎えに来ます、と前金を払って契約してしまった。




犬猫の名前は呼びやすいものが一番、ということで
タロウ、と名付けた。

19歳のミミと10歳のデブ、2匹の猫との共同生活、どうなるだろうとドキドキした。


やはり2匹とももう年寄りなので、思ったほど大騒ぎはしなかったけれど、
デブは2日間、ベランダに出たきりで、ほとんど室内に入らなかった。
タロウは部屋ではとりあえず、旅行用のケージに入れてはいるけれど、
うっかりタロウに口をつけられたご飯にデブは口をつけようとせず、
ちょっと食欲が落ちた。
放置しといたら諦めて食べ出したけど、w
そうそう、デブちゃんあんた、ちょっとくらい痩せても全然大丈夫だから、w


そして新しい「敵」が来たことによって、不思議なことに、
犬猿の仲だった二匹の関係がすこーし近づいてたりして、w
そんな気はしていたけれど。
「相関関係」。おもしろいね。


ケージから出すとタロウはおおはしゃぎで走り回っていた。
何度もうれしょんをした。


動物も人間もある程度の距離を保ちたい私。
だから猫の方が好きで楽で、飼うのはいつも猫。

今まで何匹も飼ってきた猫たちもほとんどが大きめの状態から飼い出したので
そんなに手がかかることはなかった。
今の2匹は比較的小さくて、特にミミだけは手のひらサイズから
ミルクを飲ませながら育てたけど、
基本的にめんどくさがり、自由人なので手のかかる相手の面倒を見るのは苦手。
厳しくしつけるのも苦手だし。
でも犬ってちゃんとしつけないとダメって言うよね…

元気で走り回り、アタックしまくってくるタロウに
正直初めは
うわー、やっちゃったかも。
ほんまに飼ってよかったんかな。
と、若干の後悔。
なんか、猫たちみたいにものすごーくかわいいと思えなかった。


でも2日目にもなると、犬はやっぱり猫と違って賢いなってことがわかった。
朝昼晩以外ずっとケージに入れてると、
ちゃんと散歩に出した時だけうんことおしっこをして、
あとはほとんどしなかった。

多分タロウはもう5ヶ月で、売れる時期を過ぎていたから値段も下がっていたのだろうし、
実際ちっさいコロコロした柴はほんとにかわいいと思うけど、
意思疎通が難しい「赤ちゃん」という存在が基本苦手な私にとっては
このくらいおっきくなっていてくれてほんとに助かった。

落ちついてくるとお腹をぐわーっと出して気持ちよさそうに寝ていたり、
あの、最初にやられてしまったときのおとなしい上目づかいもするようになったりで、
純粋にこいつ、かわいいなと思えるようになってきた。



昨日、友達が来た時、彼女に向かって吠えて、
うわ、タロウ番犬なんだ!と気づいた。
でもそれって私とダンナのことはちゃんと飼い主ってわかってるんだ、ってわかって、
そうするとなんかますますかわいく思えるようになった。

もうおすわりもだいぶできるようになった。
次はお手だな。

ダンナも言ってたけど、タロウを連れて外に出ると、
みんながかわいいかわいいと視線を向けてくれる。
なんか得意げな気分。


犬と比べてとっても申し訳ないけれど、
もし、私が赤ちゃんを産んだとしたら、
同じような感覚なのかもしれないなと思った。

もしかしたら10か月の間に母親としての気持ちがすでに
育つのかもしれないけれど、
基本的に自由で自分勝手に生きたい私にとって、
赤ちゃん=自分の自由を奪う存在は
きっとわずらわしく思うところが大きいだろう。
絶対に思っちゃいけないと思うけれど、
(そう思うから産みたくないのだけど)
なんで産んじゃったんだろう、と後悔するかもしれない。

だけど、無邪気に眠る姿とか、こんなにちっさくてなにもわかってないように見えるのに
自分のことを親として認識してくれることとか、
小さな成長を見つけることとか
周りの人からも祝福されることとか。
そういう経験をして「母親」になっていくのかもしれない。

ほんと、犬と一緒にするな、と怒られそうだけど、
自分としては疑似体験した気がします。

1週間たって、だいぶ3匹の関係も落ち着いてきた。
ミミが珍しく布団の上で寝ていたり、
デブのかごに入ってみたり、
二匹のニアミスが結構多くなっていたり。
今はもう3匹ともお昼寝タイム、w
私も眠い…


夜は夜で私以外の3匹+1人がすやすや、w。
あ、朝はデブに早く起こされた後それに反応したタロウに本起こしされるので
さすがに私もちょっと早起きに。
ダンナはさらに睡眠不足でかわいそう…
でもタロウをかわいがるダンナの姿を見て、
やはりこの人を選んで間違いなかったと(そういうとこがいいなと思ったのでw)
ダンナへの愛情も深めております。

狭い狭い1DKに犬1匹+猫2匹+人間2人ってどんだけ密度濃いねん!
って感じですが、その分愛情も深く、楽しく生活していこうと思います。
あとは番犬もありがたいけど、それ以上に看板犬として
子どもたちやお客さんや近所の人にもかわいがってもらえるワンコに成長してもらえたらなと
祈ってます♪
頼むで、タロウ!

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今期のドラマが続々と最終回を迎えました。

私が見ていたのは「マザーゲーム」「Dr.倫太郎」「医師たちの恋愛事情」でした。


倫太郎の最終回は意外でしたが、リアルというか、現実的に納得のいく結末だったなあ。
仕事柄もありますが、昔から「人」を見る(診る)ことが半分趣味で、
精神的な疾患についても深く興味を持ったことがあったので
あきらがゆめのという人格を作り上げてしまったこととか
倫太郎のお母さんのトラウマとかすごく理解できました。

最後には程度の差で「病気」と名の付く症状になるかそうでないかになるだけで、
多かれ少なかれ、みんなそれぞれなんらかの苦しみ、トラウマを抱えてて、
でもそういう欠けた部分をお互いに誰かと支え合うことで
前を向いて生きていける、っていう。
まあ確かに作り物だから、っていうのもありますけど、
実際生きてるとほんまにその通りだなと実感するんですよね。


マザーゲームも「はっきり言わせていただきます」の決まり文句は
なくてもよかったんじゃないかと思ったりしますが、
全体としてはすごく好きでした。
子役のはるとくん、超ーーーーかわいかったし。
なんであの年であんな演技ができるんでしょう。
あれがほんまに「演技」だったら…こわいよーーーー!!


どっちを見てても思ったのですが、
やっぱり「孤独」が一番いけないのかなと。
生きてればいろんな苦しみや悩みがつきもので。
特にお金とか仕事上の立場とか家族とか…自分が置かれている状況そのものって
特にそれが他人との関係性において成り立っている以上、
かんたんに好転することってまずないですよね。

で、だいたいそういうとき、

「なんであの人はこうなんだろう」
「あの人にこういうことされてなんて私は不幸なんだろう」
「あれがこうだったら私はもっと幸せなのに」

と思ってる。
でもそもそも他人やまわりに求める前に、
自分が「こうでなければならない」「こうあることが幸せの条件」と思いこんで
頑なに守っているものは何なのか。
それは本当に自分が信じているほど大事で、
自分には変えられないものなのか?
もう少しわかりやすく考えるとすると、
ちょっと立場の違うどっかの誰かにとっても
それはすっごく大事なことなのか。
ってことに気づくことが大事なんだと思います。


自分が「こうでないと幸せじゃない」と思っている以上、
他人や周りが思い通りにならなければ
絶対「幸せ」にはなれない。

でも、その思い込みを壊して、
今あるものに目を向けて感謝したり、
価値観を変えて今までとは違う価値観で楽しみを見つけたりすると、
確実に「幸せ」を感じることができる。

そこからまた次への活力が生まれるから、
今まで絶対に変わってくれなかった周りが
意外とあっさり変わってくれたり。
変わらなくても、自分にとってはもうどうでもよくなったり。


でもそういう風に変わるきっかけってなかなか一人ぼっちではつかめません。
誰かに愚痴を聞いてもらったり、
逆に誰かの愚痴を聞いたり、
誰かに心地よさを与えてもらったり、
与えて感謝されたり。
ただ一緒に何かをすることで自分とはまったく違う価値観に気づけたり。

そういう意味でマザーゲームは見てて楽しいドラマでした。



私も教員時代初期には一人で頑張りすぎて
すごく苦しかったし、
思い通りにならない生徒にイライラしっぱなしでしたが、
波乗りに出会って海の言葉にならない心地よさに癒されたり、
学校内とは全く違う「常識」で生きている仲間たちに出会ったり、
習い事をして自分が「教わる立場」になってみたり。
そういうことで生徒の見え方や仕事へのスタンスが変わって
だいぶ苦しみが減りました。


家族への気持ちも20代の頃は自分なりにいろいろありましたが、
学校でいろんな子ども、親たちを見たり、
親となっている自分の友達や親とは違う「大人」と付き合ったりする中で
冷静に家族のこと、その中で育ってきた自分自身のことを
分析できるようになり、
新しい生き方を選んでいけるようになりました。


仕事や結婚、子育てっていうのは
要するに他人と深く付き合いつつ自分の居心地のよさを確保していく修行のようなもので。
結局は自分と向き合う修行なんだと常々思います。

でも、とにかくしんどくて笑えないと、
そこに幸せは生まれないので、
少々人を傷つけても、
自分の強い倫理観から外れることをしても、
とりあえず、自分が笑えて、それが周りの人の笑顔にもつながっていくように
日々を送っていくことが大切だと思います。

(過去の私がそうだったように、w)まじめな人は
自分の倫理観から外れることが本当に大変だと思いますが、
これもトレーニングです!
最初はすごい罪悪感にさいなまれます。
できてもできなくても、w。
すぐにできなくても焦らなくていい。
一歩ずつ、変化や努力、過程そのもので自分をほめて
周りに笑顔をふりまける人が増えるといいなと。
そうすれば世の中はもう少し幸せになるはずだから。


そのために自分ができることをぼちぼちやっていきたいと思います♪

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実はもいさはこの6月で5周年を迎えます。
わお!すごーい!あっという間!

この5年でいろいろ紆余曲折ありましたが、
やはり一番大きな変化は結婚、これに尽きます。


ある日の夫婦のやり取り。
夜10時過ぎから12時を回る仕事を終えた私に

夫「いつまでこんなに遅くまで仕事するん?
  今から寝ても俺は朝5時に起こされる。
  何時間寝られるとおもっとんや」

そうなんです。
うちの猫はだいたい朝5時になると

「ニャー(ご飯くれ)」

と起こしに来るんです。
もう慣れている私はまーったく気にせず、
そのまま寝てるので、
猫もそのまま諦めてまた寝てたんですが、
私よりちょっと?繊細な夫は
その声や猫のトイレの音で起きてしまい、
ご飯をやってトイレを片づけて…
そのままもう起きる時間までほとんど眠れないらしいです、苦笑。


私としては、
まず、結婚する前から私は特殊な仕事だし経営者としての思いもあるから
仕事を優先して家庭が後回しになって迷惑をかけることは伝えていたし、
夫もそれを了承していた、とか
私が仕事していても先に寝といてくれればいい、もしくは
夕方帰ってから時間があるんだから仮眠すればいい、とか、
猫に負けないよう慣れればいい、とか、
正当と信じている言い分がめっちゃあるんですけど、
自分が結婚を決めた時に、
覚悟しないといけないとはわかっていて。


私は人や自分を分析するのが趣味で
自分のことをよーっくわかっていたので
結婚前から自分ができないであろうと思われること(料理、早寝早起き、趣味を削るなど)や
譲れないことは伝えていたけれど、
普通の人は結婚する前は熱病にかかってるようなものなので
「できる」「やろう」と思ってるんですよね。
だからいくら口では「わかった」「大丈夫」「俺がやる」なんて言ってても
まあ、そうはいかないだろうな、とはわかっていて、
自分が少しずつ「普通の妻」に変わっていくしかないんだろうなと
覚悟を決めていたわけです。
実際、1年前の自分とはまったく違う生活をしていて
私をよく知る友達はみんな驚いています。
(世間一般的な?妻からすると当たり前のことなんでしょうけれど、
以前の私と比べると、ですね)


でも仕事のことだけはある程度譲れないものがどうしてもあって。


もいさはサラリーマン時代苦しい思いをしていた自分が
「あったらいいな」
と思っていたものを形にしてきたので、

「病院や薬では治らない苦痛をなるべく自力で治すサポートがあったらいいな」

「疲れて遅くに帰ってきたあと寝る前に施術を受けたいな」

「はりの効果とアロマの気持ちよさが『治療院』的な場所じゃなくて
リラクゼーションサロンのような空間で受けられたらいいな」

この3つの視点は譲りたくないんですよね。


私にとっては深夜の仕事は自分がいくら大変でも、
それ以上に、
一生懸命働いているのに施術院に行きたくても
仕事が終わったらもう閉まってる…
という人を癒す喜びや充実感が得られるとても大切なもので、
誇りを持っていて。

夫の言う、「夫を持つ妻のくせに遅くまで働き過ぎ」というのも
わからなくはないですが、
私が誇りを持っている仕事への理解を得られないことが残念で。


でも、最近ほんとに暑いですよね。
この暑い中、朝から夕方まで外で働いている夫のことを考えると
やはり「夜はスーパー銭湯行って早く寝たい」という望みくらいは
聞いてあげたいなと。
最近夜中までやってるチェーンのリラクゼーション店も増えてますしね。


というわけで、6月から営業時間の変更を考えています。
夜のもいさを重宝してくださっていた方々には
ご迷惑をおかけしますが、時間外も多少は柔軟に対応していければと
思っていますので、ぜひ今後ともよろしくお願いします。
ってもう5月もあと数日ですね!
急がねば(^_^;)

やはり結婚=他人と生活していくって大変ですね。
でもだからこそ得られるものもありますからね。
お互いにけんかしつつ、譲り合ってバランスをとりながら
楽しく生きていきたいと思います。

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腰痛で苦しまれている男性のお客様からうれしいお言葉が。


「朝痛くて起き上がれないくらいだったのに
施術してもらった次の日はうそのように痛みが消えてたんです!」




それはよかったです!
でも私は
・痛みでアンバランスに固まった体をほぐし、
・過労で回復力が追い付いていない体をはりで血流をよくした
だけなんです。


つまり、「どうにもならない痛み」のようでも実は
・適切なストレッチで体をほぐし、
・オンの時間をすこーし加減しつつ、
入浴やお灸などで疲れを癒し、頭をオフしてしっかり睡眠をとれば
自力でも改善可能な痛みなんですね。


さらに
・日常生活での正しい姿勢や正しい体の使い方を
体に覚えさせていけば
痛みの発生そのものを予防できます。


と言っても口で言うは易し、でそのどれもがなかなか自分でやるのは難しいから
私たちがサポートさせていただいてるんですけどね。


でも、できる限りお金をかけず、人の手を借りずに
対処できた方が幸せですよね。
なのでもいさでは呼吸法やストレッチを取り入れたミックスもいさや
毎週1回お手頃に通っていただける月はりなどのメニューを
推させていただいてます。


でもでもやっぱり人にやってもらう方が気持ちいいし、
自分で完璧になおすって時間も気力もかかるし、
忙しい方は頭にも時間にもそんな余裕ないし、
ってことでその他の多彩なメニューもおかせていただいてます。


自分はこれが一番幸せ!と思っても
幸せの押し売りをしては本末転倒。
その方のライフスタイルに合わせて
ベストなメニュー選びをしていただけたら♪と
思って今日もみなさまをお迎えさせていただきます。


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昨日学研教室の四国ブロック研修会に参加してきました。

私がいつも学研教室でいいな、と思うのは、
「学習塾」でありながら、教科指導以上に「人間的な教育」「子どもの成長」を
大切にしているところです。

今回のことばキャンプの主催者である高取しづか先生の講演も
本当によかった。

実は先週高松事務局内で5分間くらい自分の思いをお話させていただいたんですが、
先生が目指されているのはまさに私が目指すもので、
試行錯誤しながらなかなかうまくいかない私に
より具体的なトレーニング方法をたくさん教えてくださるものになりました。

先生のHPちらっとのぞかせていただきましたが、
タイトル
「幸せになれる子」に育てたいあなたへ

ことばキャンプのサブタイトル
21世紀を自立して生き抜ける子に

私が求めているのはまさにこれなのです。
それは、先生自身がアメリカでの生活やご家族との経験で感じられたように、
私自身、今までの経験で心底感じてきたからなのです。


ちょっと長く、そしてもしかしたら重くなりますが、
私の話を踏まえて書かせていただきます。



----

二十歳の頃、私は自分のことが大嫌いだった。

県内一番の進学校に通い、
クラスでは常に学級委員長、部活では部長、
親や先生や周りからの信用も厚い、
勉強もそんなにガリガリしなくても国立のそれなりの大学に合格。



履歴書だけ見れば、「優れた」大学生だった。
でも、どんなに周りから信頼されても、一番大切な、自分からの信頼は得られなかった。



いろんなことに自信過剰でありながら、
一方ではものすごく自信がなくて、そんな自分が嫌いだったのだ。


今から考えると、要するに、自尊心が育ってなかったのだ。
(そういう自覚をするのも、自分がダメ人間であることを認めることになるような気がして、

結構時間がかかったけれど。)



高校までは常に周りが課題を与えてくれていたので、
それに対してがんばり続けることで充実した生活が送れていた。
与えられた課題を自分なりにうまくこなすことはすごく得意だったので
周りからも悪い評価を受けることなんてなく、
友達とも普通に楽しくやっていた。
(ひねくれてるところは多少あったけれど。)


 


それが、大学生になって自由度が増し、
忙しい運動部ではなくゆるーい文化部で誰も私に注目しなくなった結果、
突然自分のことが大嫌いになってしまったのだ。
なんでそんな風になってしまったのかよくわからないけれど、
とにかく自分より友達を優先する彼氏にイライラし、
周りの同級生たちがなんにも考えていないバカな子どもに見えて、
大学時代はほとんど友達付き合いをせず、いつも一人で行動していたし、
うまく笑えなくなっていた



今思うと、それまで当たり前に受けてきていた他人からの評価を失ってしまい、
何にがんばったらいいのか、どこで自分を評価してもらったらいいのかわからず、
自分に自信を持つことができなくなってしまったのだと思う。



 

 

そのときになって初めて、自分は今まで
すべて人から敷かれたレールの中でしか力を発揮できない人間だったことに気づいた。


自分で選択してきた、努力してきた、そう思ってきたけれど、
大人や周りが期待することを先に感じ取って、
それをなるべく高いレベルでこなしていい評価を受けてきた陰で、
子供の自分が本当にしたいことや逆に本当はしたくないこと、
人を嫌いになることや周りに迷惑をかけるかどうかなんて関係なく感じる素直な気持ちを
ないがしろにしてきたのだ
、ということになんとなく気づいたのだ。








誰かから与えられた「正解の用意された課題」について
常に高いレベルで解答を出すことを繰り返してきた結果、
例えば人と話していても無意識に相手と張り合い、
自分が上に立てるよう隙のない解答を用意しようとしてしまう。


私が求められてきたのはイエスかノーか、より高い点数や、
周りの人がすごい、よくできる子だね、と喜ぶことだったから、
相手と自分の間に上か下かしかないのだ。





だから私が一生懸命しゃべると周りの人は口を挟みづらくなるらしい。
そしてこれは今でも変わらない(笑)


blogやSNSなどにもコメントがほとんどつかない。
「自己完結してるよね」と指摘してくれた友達がいた。
なるほど、と思った。
自分のいい部分も悪い部分も受け入れて開き直った今なら
ま、それが私だし、しゃあないわ、で済むけれど、
自尊感情が低く、人から評価されることでしか自分を認められない状態においは
孤独と自己嫌悪、そして周囲への妬みばかり生まれてしまう


周りに評価されるような立派な人間になろうとがんばってきたのに、
どうして誰も私を認めてくれないの?
私は誰からも好かれていない。私もこんな自分大嫌い。
なのに私より勉強もできなくて努力もしてない人間がどうして私より好かれてて幸せそうなの?




こういう気持ちがもっとひどくなり、マイナスの気持ちが自分に向くと
うつ病や自傷行為につながり、
外に向くと他人を傷つける行為や反社会的な行動につながるんだと思う。
そこまでわかりやすい行動になる人は少なくても、
同じような精神状態にある人、ぎりぎりの人は
世の中きっと少なからずいると思うし、もしかしたら
誰もが一度はそういう経験をするのかもしれない、
自覚するしないは別として。




高校生まで私はずっと自分を「優れた」「いい子」だと思っていたと思う。
というか、そういう風に生きることが当たり前だと思っていた。


でも、自分が「優れた」人間だと思う裏には必ず他人をバカにする発想が生まれる




努力すればできることをしてないバカ


こんなこともできないダメ人間

自分がいろいろできてきたお母さん、
家のことや仕事をきっちりこなすお母さんが
いろいろできない子どもにイライラしてしまうのも
同じ発想です。




そして、他人に厳しくすることでますます自分の首を絞めていく





やればできるんだからやんなきゃだめ。


やらないと私は自分が嫌悪するバカなダメ人間になってしまう。
あいつみたいに。


あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、もっと完璧に。




人に優しくする余裕なんてない。


特に自分より努力してない人間に。


だって、バカで努力もしてない人になんで優しくしなきゃいけないの?


甘やかしたらもっとダメ人間になっちゃうじゃない。


誰に強く迫られたわけでもないけれど、
自然と自分はいい子でいないといけないと、
自分の中に「モラルリスト」のようなものがあって、
そうできない自分を認められない自分がいた。


だから答えのない課題をこなすこと、例えば美術の授業などはとても苦手だった。


自分に才能がないのもわかっていたので最初から勝負したくなかった。


 


ただ点をとっていくスポーツも苦手だった。自分のミスで点が取れず、
負けるのが恐くて、練習でできることが試合ではできなかった。





世の中にもっと多様な価値観があるとか、
求められる結果を出すかどうかだけじゃなく、
ただシンプルに、回りの人をなんとなく笑顔にするとか、
楽しい気分にするとか、勉強や仕事ができなくてもやさしいとか、
そういうことが理解できなかった、というか認められなかった。
認めたら今まで自分ががんばってきたことは全部否定されてしまうから。




世の中の多様なよさを受け入れ、他人に優しくなれたのは30近くなってからだと思う。






点を取るスポーツは苦手だったけれど
ダンスにはひかれた。
芸術的センスはなかったけど身体表現は好きだったんだと思う。


努力すればちょっとずつできるようになるのも楽しかったし、
体で心を表現することは気持ちよかった。


採点はされるけれど一つのものさしではなく、
もともと主観の入る採点なので随分と気が楽だった。


最終的には好きか嫌いか、で、正しいか正しくないか、の勝ち負けではなかったから。
自分が好きな分野で、しかもある程度の自由度が許されるダンスは
私にとっては「他人からどう見られるか」以上に
「自分が心から欲するもの」だったんだと思う。

ダンスや対自然、それも海に癒してもらえるサーフィン、
自分の体や心と向き合うヨガ…そういういろんな趣味と
それを通じて出会った、
「勉強や仕事ができるかどうかとは全く違うところ」で付き合える仲間たちのおかげと、
自分の中のマイナス感情やダメな自分を否定せず、
人に評価されなくても嫌われてもおかしいと言われても
素直な感情を大切にするトレーニングをしてきたおかげで、
私は自分のことも人のことも愛すること、許すことができるようになった。





こういう経験を踏まえて子どもの教育を考えると。



自由度のない課題を与え、それに対する「出来映え」
=誰かの偏った価値観のなかでの競争を強いられてきた人間は
「優れた」人間であるにも関わらず、自尊心や幸福感とは程遠い人生を送ることになりかねない。



日本人の自尊感情が諸外国に比べ極端に低いのは
教育の犯した大罪だと思う。



   Q.私は価値のある人間だと思う(「全くそうだ」と答えた人の割合(高校生、2011年)  
     アメリカ  57.2%
     中国    42.2%
     韓国    20.2%  
     日本     7.5%


私は自分が味わってきた苦しみを子供たちに感じてほしくない。
そしてその苦しみを今も引きずってしまっている大人たちを
少しでも解放してあげたい。
そのために学研、もいさ、これらの仕事をしてる。




みんなちがってみんないい





みんな口ではそう言うけれど、
これを日本社会で育ってきた私たちが教育において本当に実行しようとするのは
はっきり言って至難の業だと思う。


わたし自身、こういう価値観を受け入れられなかった子供の自分を
ちょこっとずつ修正しながら、
他人にどう評価されるかではなく、
自分も他人も、幸せに生きるために、今の私にできることは何か、
必死で試行錯誤してる。





そんな今の私は、例えばSNSに100件もコメントのつく人を見ると素直にすごいなー、
この人のこの魅力はどこから生まれるんだろう、ととりあえず分析はしてみるものの、
自分のblogにコメントやいいねが全くつかなくても
ま、私ってそういう人だから、と流しつつ、またくじけずコメントしづらいblogを長々と書く(笑)


私には私のよさがあるし、数は少なくても支持してくれる人や
いいねしなくても心の中で何かを感じている人はいるはずだから。


それでいいんです。




あ、それでいいのだ、バカボン、深いなー。





私が今の幸せ、つまり自尊心と周りに惑わされず感謝できる生活を手にいれるのに
たくさん時間がかかって、たくさん苦労した。


それでも私は運よくこちら側に来られたけど、
30を過ぎても40を過ぎても、こちら側に来られず、
孤独や自己嫌悪感、他人への悪意とずっと闘っている人間をたくさん知っている。


それでもなんとか普通に日常生活を送れる人も多いけれど、そうできなかった人が
周りの人に自分の不幸や孤独の刃を向けて、さらなる不幸を産み出していることが多々ある。
そういう事件や場面を見ると本当に心が苦しく、いたたまれない。
だって、私もあのままいくとそうなっていたから。



だから、声を大にして言いたいのは、

教育を、子供を、全くのビジネスにしてはならない。


ただ自分に都合よくお金もうけしたいなら、せめて大人相手のビジネスでしてください。


教育は社会貢献にもなるけれど、大罪にもなりうるんです。
私みたいにしんどい思いをする大人を作り出す教育をえらそうに語って
お金もうけしないでください。






じゃあどういう教育がいいのか。


これ、大学の卒論のときにも、J先生に突っ込まれたなぁ。
自分の中には実感として答えがあるのだけど論文としては全然成り立ってなくて
悔しかったからいまだに覚えてる(笑)






私が目標とする教育は、

  • 同じ課題を与えても答えに自由度をもたせること

  • その子のペース、よさを大切にするシステムと雰囲気づくり

  • 何よりも課題の与え方や学習管理について、教師側の主導権をなるべく抑えていきながら生徒側の自律度を高めていくというバランスの移行


これらを備えたものだ。




つまり、先生という絶対的管理者が常に一つの解答のある課題を与え続け、
うるさく厳しく尻を叩いて正答を出させ、
より速く正しくたくさんの答えを出せたことにごほうびを与えて
新たなモチベーションとさせる、
日本が学校や塾で当たり前としてきた教育のあり方
とは正反対の教育だ。






いくら課題の点数がよくても、与えられた課題を一方的にこなしている以上、
子供に大きな人間的成長はない


自律した大人になるには、課題を自分で見つけて、
それも、正答が一つではない課題を自分で見つけて、
自分や周りが納得できる自分なりの答えを出さなければいけない。


どういう課題を見つけるか、どんな解決案を考えるか、どんな答えを出すか、
それらが「その人」を形作る。
彼の人生を幸せにも不幸にもする


学研教室の中にもいろんな先生がいるし、
多様な価値観を認めるという意味ではビジネス的なやり方も批判すべきではないのかもしれない。
また学研教室があくまでも公教育ではなく、「学習塾」である以上、
生徒数の少ない私より生徒数を増やしてロイヤリティーをたくさん上納する先生の方が
立場上えらいのかもしれない。
だけど、私はどうしても譲れない。
私たちが扱っているのは「物」じゃない。「大人」でもない。
「未来を生きていく子どもたち」だから。
お金よりも大切なものがあると思う。
勝ち負けや数字よりも大切なものがあると思う。
それらを大切にした上でついてくるお金、数字が
本当に価値のあるものだと思う。
そしてそれを実現させる可能性を持っているのが学研教室だと
信じてがんばりたいと思います。


また、とめどなく、長々と書いてしまいましたが…
これでいいのだ!w

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プロフィール
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HARI salon & studio MOISA
性別:
女性
職業:
鍼灸師・あん摩マッサージ指圧師
趣味:
食べる、波乗り、猫、クラブ、ヨガ、バレエ、ダンス、スポーツ観戦(プロレス、フィギュア、柔道)
自己紹介:
HARI salon & studio MOISA
香川県高松市桜町1-16-19
 080-1993-2113
 11:00~25:00
 (完全予約制、~17:00は要前日予約、電話受付は~23:00)
 第1・3土曜、日曜、祝日定休
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